🍋 ひらめきの条件 🍋

大川隆法総裁先生 書籍・発展思考 参照です。

① ひらめきの基礎 

このときに大事なのは、成功のきっかけというものをどうか無駄にしないでほしいということなのです。では成功のきっかけとは何でしょうか。それは主として二つあります。ひとつはひらめきです。

あなたが常に成功を求めている人間であるならば、成功を求めている人間であるならば、成功を求めているというその姿勢を保つなかに、ひらめきが生まれてくることがあります。よきアイデアです。よき思いつきです。

この人と組めばうまくいくなとか、こういう仕事がこれからの主流になるのではないかなとか、ここは誰も目をつけてないところだなとか、さまざまなことに気につくようになります。このひらめきというものは実に大切なものです。成功していく人をみていますと、この点において他の成功していない人とずいぶん違うように思えるのです。

たいていの方は同じような環境のなかに生きているわけですが、成功する人というのは、やはりひらめきが多いように思います。そして、そのひらめきの質とひらめきの数が多ければ多いほど、いろいろなところで成功していくのではないかと私は思っています。

たとえばよき経営者と言うものを考えてみても、経営もやはり日々のひらめきの連続なのではないかと思います。一つのひらめきがあって、新製品が大当たりしたとしても、それで満足してしまったらどうでしょう。その会社はそれ以上には決して発展しないことでありましょう。

ところが、一つのひらめきで成功しても、「いや、こんなものでは充分ではない。もっともっと改良の余地があり得るのではないか。もっともっとよいサービスができるのではないか」と、いろいろなことを次から次へとたたみかけていく人には、まずまず大きな成功がやってくるように私には思えるのです。

ですから、みなさんが成功していこうとするならば、このひらめきというものを大事にしてください。では、どのような心の姿勢を保っていれば、ひらめきが起きてくるのでしょうか。それについても述べておきたいと思います。まず、ひらめきの前提としては、一定の目的に向けて、常に努力しているという姿勢が必要です。

もちろんたまには、何らの努力もしていないのに、ひらめきだけが降ってくるということもありますが、それは偶然に近いものになることが多いでしょう。ところが、一定の目的に向けて、成功なら成功というものに向けて努力を積み重ねていきますと、ひらめきの降りてくる頻度が多くなります。

そして、それが単なる偶然として起こることではなくて、一定の実力となってくることがあります。つまり、ひらめきにも実力があるのです。基礎能力が高くなってくると、ひらめきの頻度が高まり、そのひらめきの質がよくなってきます。一方、基礎能力の足りない人のひらめきは一時的な思いつきであることが多く、いざ実行してみるといろいろな問題点が出てきて、結局駄目になることがあります。

その分だけ回り道をして、時間の無駄であった、お金の無駄であった、労力の無駄であったということもよくあります。ところが、日ごろからよく考え、よく勉強している人のひらめきというものは、そのなかに確かさがあります。これはいけるのではないかということでやっていくうちに、次第次第に、それがますますいいものになっていく可能性が高まってきます。これがひらめきの基礎をなすところの実力ともいうべきものです。

② 愛の心 

次に、ひらめきを受けるための二番目の条件は、いったい何でしょうか。私は、愛の心であると考えています。より多くの人びとを幸福にしたい、より多くの人びとを愛したい、より多くの人びとの暮らしを楽にしたい、より多くの人びとのお役に立ちたい、こういうことをいつも考えていますと、ひらめきはますますその頻度を増していきます。

関心が自分にしかない人は、自分自身のなすべきことに対するひらめきさえ、なかなか湧いてこないものであります。しかし、他の人びとは、複数の環境に、無限に近い条件下で生きているものです。ですから、関心が他の人びとを幸福にしようという方向にありますと、日ごろいろいろな人を見ながら、この人はこうしたら幸福になれる、こういう人には、こうしたらよろこばれるということを考えていますと、次から次へといろいろなアイデアが浮かんでくることは当然のことでもあると言えましょう。

経済的には、このような考え方をマーケット指向と言うのかもしれませんが、私はそういう言葉で一律に説明しようとは思っていません。多くの人びとに関心を持ち、その関心が愛に根ざしているならば、ますます素晴らしいひらめきが与えられるものである。それは、その相手が多様であるから、ひらめきもまた多様になるのである、と考えているのです。

③光明的生き方 

そして、よきひらめきを得るための三番目として挙げておきたいこと、それは常に明るく希望に満ちた考え方を持っているということだと思います。とても幸福感が強く、はればれと澄みわたった空を眺めながら、本当にうれしそうに毎日を送っていますと、次から次へと、さまざまな幸福の種が見つかってくるものであることは、みなさんも経験されたことがあるでしょう。

それに比べて、いつもどんよりとした曇り空の下で生活をしているような気持ちでいますと、考えつくことがどれもこれも自分をいじめるような内容ばかりが浮かんできます。この心の明るさというものは、よきアイデアを得る、よきひらめきを得るためにはどうしても不可欠なものであるように思います。

ちょうど、空に雲がかかると太陽の光を受けることができなくなるように、心に曇りがあると希望の光を受けることができなくなるのではないかと思うのです。よきひらめきの出発点は、やはり未来への希望があるわけですから、未来の希望がない人のひらめきというものは、悲観的なものであっても、決して自分を幸福にしないものになっていくわけであります。

ですから、こうした悲観的なものの考え方ばかりをする人とは、あまり深くつきあいをしないということも賢明な策であろうと思います。いままで元気であった人が、暗い人と話をしたとたんに塞ぎ込んで、何もかも嫌になったり、新しい考えが浮かばなくなったり、世の中すべてが灰色に見えたりすることもあります。

そのように暗いものの考え方をする人とのつきあいは、あまり長い時間をかけないようにし、できればそう多くのかかわりを持たないのが賢明です。毎日毎日、明るく希望に満ちた心を持続していますと、だんだん会う人会う人もそのようになってきます。また、明るい考え方を持っている人が、だんだんあなたのもとに集まってくるようになります。

それは誰もが幸福を願っているからです。幸福を願ている人は、自分を幸福にしてくれる人を探すものです。あなたがまさしく幸福を分け与えてくれる人であるならば、あなたのもとに人が集まってくるのは当然のことと言ってよいでしょう。つまり、明るい心、建設的な心、積極的な心、そうした心を持っていればこそ、よきアイデア、よきひらめきも降りてくるのです。

だからこそ、またそのひらめきを実現するために、次から次へと積極的な志を持っている人が集まってくるのであると、そのように私は申し上げたいのです。そしてこれは、私が過去、経験したところによれば、百パーセントの真実であることがはっきりとわかりました。

よき事業を興して成長させていくには、どうしてもこういう心の態度が必要であるということなのです。以上、本人の心がけに発する光明的な生き方というものを語ってみました。そしてこれが、実は成功する人間学の出発点でもあるのです。

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(私文:仏法真理に照らし合わせて反省をする)

自分の心を正しい方向に向けることは大変なことです。まず、仏法真理を学ぶこと、外から見て自分の心を見つめること、良いところ、悪いところを探して、良いところは伸ばし、悪いところは修正をしていくということ。他の人の姿を通して、自分を変えていこうとすることです。時間もかかるし、守護霊の力もいただいて、反省していきます。中々大変なことですが、でも、一つでも反省ができたなら、一つでも悟ることができたのならば、とてつもない喜びになります。私はその道をずっと歩んで行くつもりです。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

🐬完璧な人生ではなく、より良い人生を【自殺者は死後どうなるか】🍎

大川隆法総裁先生 書籍・大悟の法 参照です。

交通事故死の三倍以上もある自殺

「罪を許す力」について述べていきます。これは一つの宗教的原理です。罪を許す力というものは、学校で学ぶことはまずありませんし、また、実社会に出てからも、正式に学ぶことは、まれであると思います。

マスコミによって、毎日のように、罪を追求する報道がなされているため、みなさんは、”罪を許さない力”のほうは自然に学んでいると思いますが、「罪を許す」という方面の学びの機会は非常に少ないのではないでしょうか。

今回、こういう話をしようと思い立ったのは、一つのデータによります。日本における交通事故の死者は最近は減少ぎみではありますが、毎年一万人弱ぐらいいます。しかし、それよりもはるかに多く死者が出ているものがあります。

それは何であるかというと、実は自殺なのです。平成不況が長引いていることも影響しているのでしょうが、ここ数年は、年間三万人を超える人が自殺で亡くなっており、交通事故の死者の三倍以上になっています。

その内訳は、男性が二万人ぐらいで、残りが女性です。これは大変な数です。一世代を三十年とすると、三十年あまりのあいだに、約百万人の人が自殺する計算になります。これは、大きな戦争をしているのとほとんど同じです。

百万人の人々が一世代のうちに死んでしまうというのは、戦争を続けているのと変わらないのです。実際の戦争でも、毎年三万人も死に続けるというのは大変なことです。あのベトナム戦争においても、アメリカ側が毎年三万人も戦死者を出しつづけたということではないでしょうから、これはかなりの数だと言えます。

なぜ、このような事態が続くのでしょうか。日本では、自殺の問題に対する取り組みが、まだまだ甘いようです。それは、自殺の原因を解明し、それを防止するための、基本的な哲学、あるいは宗教的な教えや道徳原理など、その根本原理など、その根本の柱になるものが、きわめて弱いからだと思うのです。

たとえば、西欧のキリスト教社会では、宗教教育において「自殺は悪である」と教えられているので、「死にたい」と思っても、「自殺したら、天国に行けないのではないか」と考えるわけです。それでも自殺する人はいるでしょうが、一定の抑止力は働いています。

ところが、日本の場合には、唯物論的な土壌もあって、「死ねば終わりだ」と考えている人も数多くいますし、あの世を信じている人であっても、「死ねば、この苦しみがなくなる」と考えている人もいます。ほんとうの意味での宗教知識が非常に不足していると言わざるをえないのです。

自殺者は死後どうなるのか 

自殺者は必ず地獄に行くのでしょうか。答えは「百パーセント、地獄へ行く」ということはなく、「地獄、もしくは地獄以前の段階にいることが多い」ということです。

なかには地獄まで行っている人もいますが、地獄以前の段階で、自分が死んだことが分からずに、地上に執着して、地上の人と同じように生活している人や、あるいは、地縛霊となって、自分が死んだ場所などに漂っている人が、数多くいるのです。

そのように、この世の人や物にまだ引かかっていて、地獄に堕ちることさえ出来ない人たちがいるわけです。もちろん、地獄に行けば、苦しみは、よりはっきりと出てきますが、そこまで行けない人が多いのです。では、自殺者は絶対に天国に行けないのかといえば、そうでもありません。

たとえば、歴史上の人物では、西郷隆盛も、自刃しているので、自殺は自殺でしょう。あるいは、乃木大将のような殉死も、やはり自殺でしょう。しかし、彼らは地獄へ行っているわけではありません。死んだ当時は苦しみがあったでしょうが、その後はきちんと天上界に還っており、神々の一人になっています。

彼らが地獄に堕ちなかったのは、「生きていたときに、澄みきった心を持っていた」ということもあるでしょうし、「数多くの人から敬愛されていた」ということも大きかったと思います。そういう別種の原理が働く場合も、ないわけではないのです。

しかし、たいていの場合、すなわち、この世からの逃避として自殺するような場合は、天国に行くことはまれであり、ほとんどないと考えてよいでしょう。特に、真実の世界のことを知らずに死んだ場合には、天国に還ることは非常に難しいですし、そういう人は、天使たちが行って説得しても、受け入れないのです。

この世において、他の人の説得を受け入れなかったような人は、あの世においても、やはり受け入れることができないというのが実相です。

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(私文:新年 明けましておめでとうございます。)
新しい年になりました。本年もよろしくお願いいたします。今年の抱負は、この一年で自分を変えていきたい。週に一度はジムに行ってこの身体の筋肉を強め、散歩の時間を増やしていかなければいけないと考えています。これからはもう体力勝負です。頑張りますので、今年も是非よろしくお願いいたします。        元旦

幸福の科学 無料【自殺防止 相談窓口】 03-5573-7707 死なないでください!

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

🌸 運命を逆転させる方法 考え方には人生を変える力がある 🌸

大川隆法総裁先生 書籍。奇跡の法 参照です。

考え方のパターンを変えていく

ここで、「一定のパターンにはまって逃れられなくなる」というタイプの人が、運命をどう逆転させるか、どう逆転打を打つかということを考えてみましょう。あたかもジェットコースターに乗っているような落ち方をしていく人が多いのですが、その理由を探ってみると、ほとんどは考え方のパターンに原因があります。

その人特有の考え方のパターンがあって、一定の状況が現れると同じパターンを示し、決まって、負けるほうの反応の仕方をしてしまうのです。そこで、自分の反応のパターンをよくつかんでおく必要があります。「こうゆう状況になると、自分は必ずこのようになる」というパターンを客観的に把握しておくことが非常に大切なのです。

人間は、何度、反省しても、過去と同じ失敗のパターンをくり返してしまいがちです。それが人間の悲しいところです。そして、年を取るにつれ、そのパターンがしだいに変わらなくなってきて、魂の傾向性が固まった状態になります。

これが仏教でいう「有(う)]の状態であり、「転生輪廻の主体になる」と言われる部分です。年を取ると、自分の考え方や行動の仕方がだんだん変えられなくなり、固まってしまうのです。

したがって、「人生を変えたい」と思うならば、積極的に努力して、自分と違う考え方や行動のパターンを身に着ける必要があります。そのようにして、自分自身を変えていくことは可能なのです。

粘土で、一定の形をつくり、時間を置くと、だんだん乾いて固まってきます。完全に乾いて固まってしまえば、もう形を変えることはできません。さらに、それを窯で焼いてしまうと、あとは壊すしかなくなります。これは「有」の状態なのです。

しかし、流動的に生きているうちは、まだ固まっていない粘土のようなものなので、いじれば形を変えることができます。そこで、そのいじり方が非常に大事になるのです。

自分をよく知っているのは自分自身

その際に、注意すべき点は、「他人の否定的な想念を受けすぎない」ということです。他人が発している想念にもさまざまなものがあります。なかには、自分を成功させ、繁栄させる想念が出ていることもあります。

そのような場合は、自分に対する応援として素直に受け取ればよいでしょう。しかし、通常は、否定的な想念が非常に多く飛び交っているので、それをあまり受けすぎないように気をつけなければいけません。

どうしても第一撃は受けてしまいやすいのですが、二度も三度も同じような想念を受けているようでは、他人の想念に対する防衛力が弱すぎます。こういう人は、他人に非常に影響されやすく、暗示を受けやすいタイプだと言えます。

最初の一撃は避けられなくても、二度目、三度目には、自分なりの考え方を持って、相手がどのような考えで言っているのかを冷静に分析し、否定的な感情を受けすぎないようにしなければいけません。世の中には、自分以上に自分のことを知っている人はいません。

みなさん自身のことをいちばんよく知っているのは、みなさん自身なのです。自分といちばん長く付き合っているのは自分自身であり、何十年もの歳月を付き合ってきているのです。したがって、自分自身のことは、最終的には自分自身の考えで判断しなければいけません。

みなさんは、他の人のことを深く知っているわけではなくても、その人について、あれこれと意見や感想を言うことがあるでしょう。それは他の人も同じなのです。

他の人が、あなたに対して率直な意見や感想などを言ってくることがあり、それが、耳には痛いけれども役に立つ、ありがたい話である場合もあります。ただ、それは、あなたのことを百パーセント理解したうえでの意見ではないことも知っておく必要があります。

自分のことは自分自身がいちばんよく知っているのですから、他人の意見をどの程度受け入れるか、あるいは受け入れないかを最終的に判断する主体は、自分自身なのです。

運命に支配され、翻弄されている人、くり返し運命のパターンにはまってしまう人、何度も同じよな失敗をする人を観察してみると、まるで、他人の否定的想念という、 ”きっかけ” が自分に迫ってくるのを待っているように見えます。

そして、その兆しを見つけると、「また来たか」と嵐の前兆のような感じになって、自分が崩れていくのです。いわゆる「ザリガニ型人生」(ザリガニのように、危険を感じるとすぐに後ろに下がる生き方)になり、退却が始まるわけです。

しかし、否定的な想念をまともに受けて、それに支配されてしまうというのは、ある意味で、他人に完全に操縦されることになるので、人生における主体性、責任という観点からは、見劣りがすると言わざるをえません。

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(私文:今年もわずか三日になりました)
2022年ももうすぐ終わりです。皆様、今年は本当にありがとうございました。まだまだ、読んで下さる方が少なく、何とかして、大川隆法総裁先生が説く仏法真理をお知らせしようと思っています。もっとこの投稿も素晴らしものに変えてゆくつもりです。2023年もよろしくお願いいたします。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

🍉現代における「武士道精神」とは🍉

大川隆法総裁先生 書籍・現代の武士道 参照です。

「一期一会の精神」は自分自身の生き方にもある

現代の仕事社会、あるいは、家庭も含めての人間の生き方、特に、日本人的な伝統を背負っての生き方を考えるとき、「武士道精神」として、やはり、幾つか心掛けてほしいと思う点があります。それについて簡潔に述べ、その後、質問等があれば受けようかと思っています。(本章第三章照)。

まず、「どのような武士道精神を持ってほしいか」ということですが、先ほど述べたように、人生は平均三万日ぐらいあるかもしれないけれども、「人は、今日、死ぬ可能性もあるのだ」ということがあります。交通事故もあれば、その他の自然災害もあれば、突如、何かで死ぬこともあります。

私も、映画【製作総指揮】・大川隆法総裁先生。2019年公開。ベストセラー作家である主人公が、医師による死の宣言から「復活」を遂げ、使命に生きる姿を描く。ストーリーは大川隆法総裁先生の実際の体験がもとになっている。『新復活』(幸福の科学出版刊)参照照。

「世界から希望が消えたなら。」が大ヒット上映中だったとき、うれしいことはうれしいものの、何だか、十五年前にタイムスリップしたようで、ときどき、「今日、明日にも死ぬかもしれない」といった気持ちになることがありました。みなさんのいろいろな念波を受けていたのだろうと思いますが、そんな気持ちになることもあったのです。

しかし、私が十五年前、病気と診断されたときに活動をやめていたら、その後の二千回以上のもの説法はありませんでした。当時は、まだ三百冊ほどしか本を出していなかったので、二千数百冊の本も出ていません。また、全国も回っていないですし、その後、海外も十数ヵ回りましたが、そこも回っていないので、今ほど海外信者もできていなかったでしょう。

現在つくっているような映画もつくれなかったですし、幸福の科学学園那須本校も関西校もできていないし、HSU(パッピー・サイエンス・ユニバーシティ)もできていないし、政党(幸福実現党)もできていません。それら全部が、「ない」状態だったはずです。

つまり、あのとき諦めずに、再度、戦うことを決意したことが、その後の十五年間の教団の歩みを決定的に決めたのです。そうしたことを思うと、「将来的には成功しよう」とか、いろいろな考え方もあろうかと思いますが、やはり、「一期一会の精神」は自分自身の生き方にもあるのだということです。

「今日が人生の最期かもしれない」と思って生きる

「今日一日、何ができるか」ということです。「一日一日が勝負で、一日一日が、人生の最後かもしれない。そう思ったときに、あなたはどう生きますか」ということ。この問いに答えながら生きることが大事です。「十年後は、どのよういなるでしょうか」とか、そんなことでは、やはり駄目です。

今日、ありがたくも、朝、目が覚めたなら、「今日一日で、もしかしたら、自分の人生が終わるかもしれない。そのなかで、何ができるか。何をなすべきか。何をしなければ、心残りであるか。思い残すことがあるとしたら、何であるか。この一手を打てるか」そうしたことを、自問自答することです。

私は、これは十分に、「現代的武士道」だと思っています。今日、夕べには、白骨になっているかもしれない身です。十五年前、大病をして、医者から「すでに死んでいてもおかしくない」と言われた私としては、いつ、そういうことが起きるか分からないわけです。

十五年前のそのときには、総合本部に出勤して、当時の理事長や総合本部長等と会談をして二時間ぐらいで帰ったのですが、その帰りの車中で異変が起きました。

「正心法語(幸福の科学の根本経典。仏陀意識から降ろされた言霊で綴られており、これを読誦することで天上界とつながり、霊的な光が出てくる。大川隆法総裁先生が経文を読誦しているCDも頒布されている)をかけてください」と言って、車を停めて『仏説・正心法語』のCDをかけ、その後、家に帰ってからも、『仏説・正心法語』のCDをかけて三十分ぐらい横たわっていました。

すると、だいぶ元に戻ってきたので、あとは普通の生活に戻り、翌日、念のために病院へ検査に行ったところ、そのような状態、すなわち、「昨日、死んでいたはずだ」と言われる状態であったのです。もっとも、私は、”普通の人ではなかった”ので統計学は当たりませんでした。

ただ、今も、このように説法をしていますが、いつも、「今日死んでもしかたがない」と思いながら話をしているのです。そういう意味での、「覚悟」「生きていく覚悟」というものがあります。「明日できればいい」とか、「来年できればいい」とか、「次の人がやるさ」とか、そうした、役所などにありがちな先延ばしをしたり、「自分が傷つかなければいい」という感じに考えたりする人もいるかもしれません。

しかし、判断を保留にしたり、先延ばしにしたりして、「自分のときに、減点や失敗がつかないようにして世を過ごす。定年まで生き延びる」ということばかりを考えるような人間にはなってほしくないのです。「あなたに明日がある保証はない」ということ、これは知ってほしいと思います。

「今日できることは何なのか。なけなしの力と、なけなしの時間のなかで、何か一手を打つことはできるかどうか。何か考えることはできるか」そうしたことを、常に問うていただきたいのです。毎日毎日、そういうつもりで、「一日一生」で生きていたら、やはり、ほかの人とは、かなり違ったものが出てくるだろうと思うのです。

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(私文:Towice born できたことを知った自分)
私は過去30年位、海外生活をしていました。寿司の板前として、普通に生きていたと思います。お酒をたくさん飲み、独身貴族を気取って、ギャンブルも沢山していました。ラスベガスには20回以上も行っています。そのまま行けば、結婚もせずにただの老人になってしまって、まだ日本に帰ってこれなかったに違いありません。自分の過去を振り返って思うことは、幸福の科学の仏法真理に出会っていなければ、大川隆法総裁先生に出会っていなければ、確実にどこか日本以外の国で、生きがいもなく生きていたと思います。中々、仏法真理を身につけることは難しいことです。生き方を変えることは難しいことです。時間をかけて少しづつ少しづつしか、変わることはできません。これからも力を出して頑張っていくつもりです。頑張ります。!!!

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

🍊 霊界への旅立ち 三途の川を渡った後とは? 🍎

大川隆法総裁先生 書籍・悟りに到る道 参照です。

生前を映すスクリーン 

やがて、お城もしくは役所のようなものが見えてきます。                               この霊界に入ってくるときは自分ひとりだったのに、そこには整理番号をもらって並んでいる大勢の仲間がいて、「お宅さんもですか」とか、「何してましたか」とか、「どうして死んだのですか」などと話しあっているのです。ここで集められて、整理番号を渡されてゆくのです。          

そして、「これから先どうなるのだろうか」と、みんなで不安そうに相談しあったりします。お互いに相手の心のうちを見ながら、「いや、あんたさんは、善行を積まれたからきっと大丈夫でしょう」とか、「私はちょっと危ないのです。家内も知らなかったことがございまして」とか、「危ないかなあ」とか、そこで不安なことを先取りして、いろいろと言っているのです。

やがて順番が来ると、ちょっとした広場のようなところへ出されます。  そこは近代的なところもあれば、非常に古いところもあります。     ここの役所まできますと、あの世の天界からもいろいろな方が降りてきて、見にきたりしています。そして、当会の本に書いてあるように、広場のスクリーンのようなものに、生前のその人の生き方というのがサーッと映し出されるのです。     

それで、裁判の傍聴をするような、あるいは陪審員のような感じで、いろいろと感心のある人が見にきたりすることがあるのです。それは、映画のようにもなります。歳をとった方ですと、鏡のようなものに映したりすることもあります。                             

いずれにしても、自分は八十年生きた、百二十年生きたと思っているかもしれませんが、不思議なことに、ほんの三十分か一時間程度の間に、その人の一生が全部映るのです。本人が忘れていることまで、あらいざらい出てきます。そこで、まわりの人のさまざまな反応が出てきますし、その前で見ている自分自身が、「自分はいったいどんな生涯を送ったのか。自分は何者であるのか」ということを、徹底的に見せられるのです。                      

すべての人に、その人のほんとうの人生があらいざらい見えてしまいます。この世で生きている人間は、人の目はいくらでもごまかすこともできるので、それほどわからないのですが、あの世にいったときには全部公開されます。そのときに、自分自身とは何者であるかということを知らされるのです。                                

そこで、「こういうふうにならないように、早めに反省をしなさい」というのが、当会の反省の教えなのです。「生きているうちから反省を始めておけば、早いですよ」というのは、このことなのです。たいていの方は、悪いことも思っていますし、悪いこともしているので、自分の一生が映ってきたときに、ゾクッとくるわけです。「嫌だな、ああ、もうすぐ、こんなことをするんだろうなあ」と思ったら、案の定そのシーンが出てきます。                  

「嫌だなあ。あれだけは出したくないな」と思うものが出てくるのです。 その後の反省のシーンが映ったら、ほんとうにありがたいです。     自分が反省しているところが映ったらホッとしますし、まわりの人も、「ああ、感心なところがあるものだな」という感じになるのです。      

ところが、そういうところが全然出てくることなく、「ああ、嫌なことをするな、するな、するな」と思っていると、その通りのことをして、「次、あれ、もしかして出るかな」と思ったら、その通り順番に出てくるわけです。これを見ているうちに、その人の表情がだんだん変わってきます。    

それは合格発表のときに、「やった!」と言っている人と、シュンとして「落ちたかなあ」と言っている人がいるのと同じように、これが終わるころになると、だいたい自分でわかるのです。「どうだった」ということを、審問官のような方に聞かれるのですが、「だめでしょうね」とか、そういう話になるわけです。そこで、いろいろなコースがあって、「あなたは一応、こういう予定になっているから、ここへおいでなさい。このコースを進みなさい」と道を示されます。                                   

ただ、これでもまだ、死んでまっすぐ井戸に落ちてゆくような人よりはましなのです。生前を反省するチャンスが与えられているだけ、まだましなのです。自分という人間とは何かを知らされ、あなたはこういう人生を生きてきたということ、あなたの魂にとって、いちばん必要な学習は何だと思うかということを確認させられ、ここがいちばんの問題だということを教えられますから、それにふさわしいところに行って修行をしなさいということになります。                                

心の思いに応じた世界へ                          

あの世では悪いところを直すためにどのようにするかと言いますと、あの世の世界の法則は心の法則ですから、同類相集まる、波長同通の世界で、自分とまったく同じようなタイプの人を集めるのです。そして、ゴシゴシと芋を洗うように、お互いにお互いを見ていて、嫌になるまで自分の醜さのようなものを味わうことになるのです。      

すなわち、地獄へ行った場合、自分の醜さとまったく同じパターンを持った人と、嫌になるまで出会うのです。みなさんも、生きている中で、自分とよく似た人を見たら「嫌だなあ、この人は」と思うでしょう。「自分は早食いが自慢だ」という人でも、早食いの人が大勢集まって食べていたら、何だか嫌になってくるでしょう。

「自分はミス・コンテストに出たい」と思っている人でも、そんな人ばかりたくさんいたら、やはりなんとなく嫌になるでしょう。このように、自分と同じような人をあまり見過ぎると嫌になるでしょう。 このように、自分と同じような人を見過ぎると嫌になるものです。これは、自分の尊厳を害されたような気がするからです。同様に、あの世の世界でも同じようなタイプの人と会うのです。     

そして、地獄なら地獄に入っていったときに、最初はあまりの驚きのために口もきけないような状況になります。「反省の原点」の講演(1992年第三回大講演会)でも述べましたが、あの世の世界というのは、結局のところ、主観のみの世界なのです。自分の心のみ、心しかない世界です。                 客観的なことは何もありません。心だけなのです。                          

まるでインディ・ジヨン‐ンズの世界のように、次から次へといろいろな光景が出てきます。この反対も場合もあります。そのスクリーンを見てから、天国に行く方もいます。死ぬときに一度、友人や両親や先生といった方が来てくれると述べましたが、天国に行く場合には、その段階でもう一回来てくれます。生前についての反省会のときにももう一回来てくれて、「よかったね、よかったね」と言ってくれ、「じゃあ、いっしょに行こうか」と、その人が住んでいる世界まで連れていってくれることがよくあります。        

最初は、懐かしいものですから、昔の家族や友人といっしょの生活をしばらくしていることがあるのですが、だんだんそぐわなくなってきます。魂が合わなくなってくるのです。「昔はあんなに親しかったのに、どうしたのかなあ。昔は両親といっしょの家族団らんがとてもよかったのに、どうしたのだろうか。もうひとつ両親と合わないなあ」と、何か合わない感じがしてきます。  

この「しっくりこない」という感じが、実は、まさしくその人の霊格の問題なのです。それを低く感じるか、高く感じるか、それは人次第です。そして、その村に住んでいる人たちを見ていて、「何か物足りないな。ちょっと違うな。自分が住む村としては、なんだかちょっと変だな」という感じがしてくる頃合いになると、また次の導きの天使なり、そういう係の方が来て、「では、次の所に連れてゆこうかな」ということになり、だんだんあの世でも魂の学習をするようになります。                 

もちろん、生きているときにある程度悟りを開いて、天使としての自覚をもっておられるような方は別で、例外的に、もうひとつ別のルートがあります。それは、割合早いかたちで、そういう世界をドームのような超エスカレーターに乗っているようにスーッと一気に上がってゆく方で、このような方も稀にはいます。                                   

そういう方の場合は、あの世に上がってゆくときに、天使の羽のようなものが見えてきたり、天女の格好になっていったりと、上昇してゆくにつれて自分の格好が変わってきます。「お坊さんのような恰好になってきたな」という方もいるし、女性ですと、「あれ、天女みたいになってきたわ」というふうになることあるし、そのように変化しながら上がっていって、元いたところにまっしぐらに還れる方も、稀ではありますが、いることはいます。              

こういうふうに、あの世の世界というものは、その人の生前の人生すべてが、あの世のどこへ行くかをストレートに決めるのです。ですから、これは完全に自己責任の原則なのです。この世に生まれたら、もちろん環境とかいろいろなことがあるでしょうが、結局は、人間それぞれが小さな神のようなものであり、自分の判断で、人生を主体的に選んでゆけるようになっているのです。           

自分の判断で選べるからこそ、そのような自己責任の原則が出てきて、来世の天国と地獄というものも現れてくるのです。これを知って下さい。ですから、来世、もし苦しい環境が出てきたとしたら、これを決して神仏のせいや、自分の家庭環境のせいや、教育環境のせいや、お金の問題や、友人・知人、会社の同僚などの責任にしてはなりません。                                    

「これは自己責任の原則によるのだ」ということを、まず受け止めることが出発点なのです。「自己責任だ」と受け止めた後、「いったい何がいけなかったのか」を自分に問うことが次のステップなのです。このように、あの世の世界では、徹底的に、「自分とは何か」ということを見せつけられます。                             「それを少し早めにしましょう」というのが、こういう宗教の流れなのです。                                                 

「ほんとうはあの世ですることですが、あらかじめ予習しておきましょう。そうするとだいぶ修行が進みますよ」というのが、宗教の世界であるわけです。

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私は、スーパーで嘱託という立場で働かせていただいています。いつも気の合った人と話をしていて発見したんですが、47歳の女性のお父さんが私と同じ73歳だと言っていました。ということを52歳の男性に話したところ、「俺の親父も73歳だよ」と言ってきました。計算的にはどちらも正論だとは思いましたが、何か、頭がクラクラとしてしまいました。

 

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

🌷 霊的世界は実在する 🌺 幸福への方法 🍋

大川隆法総裁先生 書籍・幸福への方法 参照です。

今年(1996年)は、幸福の科学は立宗十周年に当たります。
そもそも、幸福の科学が始まったのは、1981年三月に、私が霊的な覚醒を得てからのことです。

実際の活動は1986年から始まりました。1981年三月から数えると、すでに十五年ほど霊的世界との関り合いを持ってきたことになります。この間、「私には霊的な世界との交流なくして一日もなかった」と言ってもよいと思います。

世間の人びとから見ると、まことに不思議な話ではあるでしょうが、私が、目に見えぬ世界の存在というものを身近に感じ、霊的な存在、いわゆる霊人たちと、日常会話をするように話ができるようになって、すでに十五年になるわけです。

そうした体験を積み重ねてきた私から見ると、宗教を信じない人びと、あの世を信じない人びと、「霊などというものは、まやかしではないか」と考えている人びとというのは、「まことに気の毒な人びとである」と思えるのです。

真実は一つしかありません。霊的な世界が現実にあるのか、それともないか、このどちらかです。これ以外の結論はありえません。霊的世界があることを実証する報告は数多くあります。私だけではなく、大昔から数多くの人が体験し、報告しつづけてきたのです。

世界的な宗教家といわれる方は、霊的世界について何らかの発見をし、報告をしています。そして、私は、「それは、二千年前や三千年前だけにあったことではなく、現在ただいまにおいても、同じように真理である。二千年前や二千五百年前に起きたことは、現在ただいまにおいても起きる。それはずっと続いていることであり、永遠不変の真実なのだ」ということを訴えてきたのです。

この世とあの世を貫く幸福

では、幸福の科学が説いている「幸福」とは、どのようなものでしょうか。世の中のいわゆる幸福論が、この世の話ばかりをするのに対して、幸福の科学の幸福論は、この世的に幸福であるだけではなく、あの世的視点から見ても幸福である生き方を説いているのです。

それを、「この世とあの世を貫く幸福」と呼んでいます。つまり、みなさんに対して、この世で幸福感に満ちた生き方をしていただくことを願うだけではなく、死んであの世に還ってからも、幸福な生活が続くような生き方を提唱して、それを実践していただきたいと願っているのです。

もちろん、実際には、この世で不幸な生き方をして、あの世でも不幸な人がいます。この世で幸福そうに見える生き方をしても、死んでからは不幸な人もいます。この世で不幸そうな生き方をしても、死んでから幸福になる人もいます。この世で幸福であり、あの世でも幸福な人もいます。

簡単にいうに、この四通りがありえるわけです。このなかで、私がみなさんに勧めているのは、「この世でも幸福、あの世でも幸福」という、四通りのなかの最後のものです。結果的にはいちばんよいと思うものを推奨しています。もちろん、これ以外の考え方もあります。

この世に対して、まったく否定的な見解をとるならば、「この世でいかに悲惨な生き方をしても、あの世において幸福であればそれでいい」という考え方もあると思います。キリスト教徒には、この世では、悲惨なこと、悲しみの現実とぶつかり合って生きながら、あの世での幸福を目指す人が、かなり多くいます。

そもそも、教え主であるイエス自身が、この世では悲劇の人であったと考えてよいと思います。教え主が悲劇の人であったがゆえに、あとに続いた人たちも、悲劇を通しながら、あの世での栄光、あの世での幸福を求める生き方をしました。

しかし、私は、そうした生き方がいちばんよいとは、必ずしも思っていません。わずか数十年ではありますが、その地上生活のなかにも、私は一定の意味合いを認めています。人間は、まったく無意味なことをくり返すだけではありません。

「この世に生まれてくるには、生れてくるだけの理由がある。この世の数十年の人生のなかにも、それなりの役割や目的がある。人間は、何かを学ぶためにこの世に生まれてきて、そこで学んだものを持って、実在の世界、本来の世界に還る存在なのである」ーこれが根本的な考え方なのです。

したがって、私はこの世を完全に否定しているわけではありません。修行の場、教育の場、魂を磨く場として、この世は非常に大切な場であるということを認めています。「この世において、魂が数多く糧を得て、喜びを感ずることは、非常に幸福な生き方である。そして、その生き方が、あの世での幸福にもつながる」と言っているのです。

みなさんは、数十年の人生というと、長いように感じるでしょうが、日数に直してみると、平均して二万数千日です。十万日も二十万日も生きるように思うかもしれませんが、実は二万数千日にすぎないのです。

そして、砂時計の砂のように、毎日毎日が一日ずつ落ちていき、二万日から三万日たったときに、この世を去ることになるわけです。短いといえば、非常に短い人生です。この二万数千日のあいだに、この世において、どれだけのことを経験し、どれだけのことをつかみえるか。これが非常に大事です。

その貴重な経験を得るために、人間は人生を送っているわけです。そのために、この世に赤ん坊として生まれ、学校で学び、大人になると、職業に就き、結婚をして家庭を営みます。そして、病になったりしながら歳をとっていき、やがてこの世を去っていくのです。

わずか二万数千日ーこの間を、どれだけ理想的なものにしていき、あの世に還ったときに、魂の向上になっているような生き方をするか。これが非常に大事なことなのです。

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(私文:暇な時間が、自分の指針を失わせてしまうのではないでしょうか?)

仕事とか、睡眠、食事、読書、散歩、テレビを観る、お風呂に入るなどを毎日の生活のなかで、一日の24時間を使っていますが、たまに、ポッカリと空いてしまった時間、予定外の時間ができてしまうことがあります。どうしても安きに流れてしまいます。ここが勝負です。「ここからが勝負です」と教えてくれた方がいました。負けてしまったら必ず後悔することは分かっています。頑張っていかなければ!

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。